1.賃金放棄の合意の有効性
労働者との間で,賃金の放棄についての合意をおこなっ場合,それはどのような場合でも有効なのでしょうか。一般的に言えば,お互いが合意の上で合意書に署名押印し,債権を放棄することは可能です。賃金についても同様に,労働者の持っている給与債権ですから,労働者が合意した際には放棄ができる,と考えることもできそうですが,実際のところはどうなのでしょうか。
結論から言うと,労働者との間で合意したら全てその合意は有効,とは裁判所は考えません。ここには,給与債権が一般債権とは異なり労働者の生活にとって重要な債権であるということと,労働者と会社(使用者)との間には,大きく力関係が異なり,対等な合意となることは少ない,という点が挙げられます。
これらの点から,裁判所は,会社が労働者との間で給与債権の放棄の合意書を交わしていた場合であっても,その合意書の有効性については慎重に判断し,その合意が,真に労働者の意思に基づくものであり,会社側との力関係の影響ではないと判断される場合にその有効性を認める,という傾向にあります。
2.具体的にどのような場合に有効になる?
では,どのような場合に賃金放棄の合意は有効となるのでしょうか。ここで参考になる判例は,まずテックジャパン事件(最1小判平成24年3月8日),次にシンガーソーイングメシーン事件(最2小判昭和48年1月19日)の2つが挙げられます。
まず,テックジャパン事件では,雇い入れの際に180時間以上働いた場合は,超えた1時間につき2560円を支払い,140時間に満たない場合には,1時間につき2920円を控除する,という契約で雇い入れをした場合に,その合意が有効なのか否かが争われました。
結論として,「このような雇用条件で原告が雇い入れられたとしても,割増賃金の請求を放棄する意思表示をしたとはいえないし,毎月の時間外労働時間が相当大きく変動し,その予測が容易ではないことからすれば,自由な意思表示として請求権を放棄する旨の意思表示があったとは言えない。」とし,かかる合意があったとしても時間外労働分の請求は可能である旨判示しています。
次に,シンガー・ソーイング・メシーン事件では,労働者の退職金につき,労働者が在籍時,部下の旅費等の経費の使用につきつじつまの合わない部分が多く,この疑惑に係る損害の一部を補填する趣旨で請求権放棄の書面に署名押印し,かかる書面の有効性が争われました。
その中で裁判所は,労働者が,在籍時に総責任者であったこと,退職後競争企業に再就職したこと,経費の疑惑にかかる損失が発生しており,その損失を補填する意味を持っていたこと等を考慮し,労働者の自由意思に基づくものとして,例外的に賃金放棄の合意を有効としています。
3.まとめ
以上の2つの判例からすれば,労働者と賃金放棄の合意をした場合に,その合意が有効と判断されるためには,まず,労働者が受ける不利益の予測が可能かどうか,つまり労働者の方でどの給与債権をいくら放棄するのかが明確にわかる合意であるのかどうかという点と,その合意が労働者の自由な意思のもとになされたものであるのかどうかという点が必要となるでしょう。
特に後者については,給与を放棄することで労働者に何らかの利益があると認められるような場合でない限り,基本的には認められないケースが多く,労働者との間で給与の放棄を合意しようと考えている場合には相当程度慎重な配慮が必要となってくるため注意が必要です。
逆に,労働者の立場からすれば,会社にそうした書面を書かされたとしても,あとから争うことが可能なケースが十分あり得るため,書面を欠いてしまったからと言ってあきらめず,専門家に相談の上請求を行うことを検討しても良いのではないでしょうか。